月刊 「紙の爆弾」 2011年7月号
名義貸しでチェーン経営する医療ビジネス
本誌『紙の爆弾』に、医療についての告発が寄せられた。それは、だいたいこんな内容だ。
医師が常勤しているとの前提で保健所に届け出されている診療所に、その医師が普段からおらず、しかもその医師は、ほかの診療所でも同様に自身の名で届け出ている。つまり、勤務実態の存在しない名義貸しである。そんなことが、身体生命に直接かかわる医療の現場で行なわれていれば、危険このうえない。しかも、こんな診療所が、チェーン店のように全国的な展開をしているのである。
この告発のようなことは、実はかなり前から問題になっていて、にもかかわらず、メディア、特に雑誌は黙殺してきた。なぜなら、こうした医療機関は、広告を通して雑誌のスポンサーとなっているからだ。
それで告発者は、そうした広告依存体質とは無縁の出版社が発行している本誌に話を持ち込んだのである。
この医師名義貸し間題の背景として、一部の医療法人が膨張主義に走り、人材が足りないのに支部を片っ端から設立してしまうこともあるが、たいていの場合は、最初から身体生命を食い物にすることで利益にしようと目論む集団が背後にいるのだ。
その告発によると、名義貸し医師の診療所らはみな、診療所の開業や経営の支援をする会社と提携していることで共通している。この会社は医療機関向けに、コンサルティング、会計支援、人事の相談や斡旋、広告代理、集客支援、店舗開発、などの業務を行なっている。こうしたサービスの提供を受けた診療所は見返りとして、相談や斡旋あるいは事務代行の料金を会社側に対して支払う。
一見、店や商工会とか会社とコンサルティング業者という、よくある形にみえる。ところが実態は、車輪の両軸のような一体関係にあり、内容の伴わない形式だけの診療所を乱立させて、派手な宣伝により集客したうえ、挙げた利益を還流させる、という構造なのだ。
そして、全国各地に展開されるチェーン店というべき診療所は、患者に処置が実施される時には医師がやってくるけれど、普段は事務員がいるだけで医師が留守であることが多い。しばしば「プライバシーを保護するため」といって完全予約制を謳っているが、プライバシーなど建前で、患者を決まった時間帯に集めるのが目的なのだ。
そうした所では、さらにハク付けのため、顧問として医学部教員や大学病院勤務の医師名が、待合室などに表示されていることもある。もちろん、運営にはまったく関与していない。医師としての仕事は何もしていないが、医師の肩書きを飾らせてやって、「あがり」を頂戴しているのだ。
こんな危ない虚飾が、恐ろしいことに医療の分野でまかり通っている。だが、気づかないで利用している患者は多くいる。これでは患者というより客である。いや「カモ」あるいは「カモネギ」というべきだろう。
カモが鍋料理にされるためネギを背負ってやって来るという皮肉な言い伝えも同然なのである。
「リピーター患者」を生む医療ビジネス
今回、本誌に告発が寄せられた診療所が、まさにそれだった。男性の悩みに付け込んだり、悩むほどではないことなのに不安を煽ったりして集客しでいるのだ。
現在、その中心になっているのが「包茎治療」である。これが雑誌の広告に、ひときわ大きな文字で謳われている。
ユダヤ教やイスラム教では、宗教儀式として性器の一部を切る「割礼」が行なわれるが、そうした宗教が浸透しでいない日本では、治療の目的もなく性器を切ることはしない。
そして、包茎の状態によっては性行為に支障をきたす(これを俗語で『真性包茎』という。医学用語ではない)ので、それに該当するとの診断を泌尿器科の専門的見地から医師がすれば、健康保険適用で手術が受けられるし、症状によっては手術以外の治療法もある。
また、包茎のようではあるが性行為に支障をきたしはしない(これを俗語で『仮性包茎』という。これも医学用語ではない)のなら、治療の対象ではない。それでも切るとしたら、医学的ではなく宗教的な意義からである。だから日本で俗に言う「仮性包茎」は、諸外国では単に「割礼されていない状態(uncut)」と表現されることが多い。
ところが、医学的見地からすると治療の必要がない状態なのに、何か問題があるかのように言って、やたらと手術を推奨する商売が横行している。そして男性向け雑誌には、「包茎は女にもてない」と脅すも同然の広告が掲載されている。まさに「コンプレックス商法」である。よく、女性向けの雑誌に、身体的特徴が悪影響して物事が上手くいかないと吹き込み不安にさせて、高額な美容に誘導しようとする広告が掲載されているが、その男性版である。
しかし、いったいどこの男性が、女性を口説く際に性器の話をしたり見せたりするだろうか。女性だって、包茎でない男が好みなどと言うだろうか。ちょっと考えてみれば滑稽な話であることが、すぐわかる。
このほかにも、「早漏防止」だの「増大術」だのと、どこまで医学的か判別しにくいような「治療」が、広告で謳われている。「イメージキャラクター」と称してAV男優の写真を載せていたりもする。もちろん、これらは保険のきかない自由診療であるが、これについては、とても小さい文字で書き添えてある。
また、ワキガや多汗症の治療の広告も多く掲載されているが、これも本来は専門医の診察を受けたうえで、治療の方針を慎重に判断すべきことだ。これまでワキガや多汗症の治療は、臭いの原因を出す腺や、発汗の指令を出す神経を、手術で切除したり薬で麻痺させたりする手段が主に採られてきた。
しかし最近では、美容に用いられる「ボトックス」が応用されるようになった。
このボトックスとは、病原菌が作る毒素を用いて神経を麻痺させる手法であり、これを目尻や眉間に注射することでシワができないようにする美容術である。これと同様のやり方で、脇の下の神経を麻痺させ、臭いの原因が出ないようにするわけだが、シワに用いるのと同様に永久的な効果はない。
つまり、効果が一足期間しか持続しないので、患者は施術を受け続けることになる。そしていわゆる「リピーター患者」と化す。普通、医療は完治を目指し、再発しないことを理想とするが、美容関係の保険がきかない自費診療は逆で、短い効果により治療を何度も反復するのが理想である。患者が健康になるためではなく、医師とその背景にいる者たちが儲けるためなのだから。
そうなると、症状に合った治療より、挙げたい利益から逆算した治療が行なわれる。この水増しのために医師がさじ加減をしても、患者はまったく気付くことができない。そして広告の金額だけで済むことは、ほとんどない。
さらに問題なのが、安全性である。高度な技術と実績を持ち、患者が全国から新幹線に乗ってまで訪れる有名病院や大学病院ですら、事故が起きている。特に、複雑な神経に関する治療は、もともと困難なものだ。だから、経験豊富な専門医ですら、絶対に失敗しない保証はない。なのに、全国チェーン店のような診療所は、専門とは言い難い医師でもお構いなしに寄せ集めていたり、名義貸しで済ませていたりする。これでは危険ありの保証付きと言うべきである。
そして事故など深刻な事態となれば、とたんに無責任となる。現実に、これまで美容などの自費診療所は、治療そのものだけでなく、その責任問題でも、さまざまな問題を起こしてきた。被害に抗議したり、訴訟を起こしたりした患者の個人情報がインターネットに流出させられたという被害も起きているし、いつのまにかなくなっていた診療所もあった。あるいは売却されてしまい、新しい持ち主は居抜きで設備だけを購入したのだから前の診療所とは無関係だ、ということで、訴えようにも訴えられないという事態も発生している。
また、こうした診療所の背後にいる会社も、にわかに設立されて、代表者もダミーが立てられていることがあり、そうなると責任を追及することが極めで困難となる。
流行のレーシック手術に潜む危険性
こうした不良医療が標的とする人々は性別、年齢にかかわらない。最近では、七〇歳代の女性が脂肪吸引で死亡する事故が起き、警察が乗り出したため大きく報道された。高齢のため組織が弱くなっていたことが原因である可能性が高く、これについて死亡事故を起こした医師は、テレビのインタビューで「高齢者だから依頼を断るべきだった」と言った。
しかし、この種の問題を起こした医師は、必ずと言っていいほど、手術が患者からの依頼であった場合には「患者に断ればよかったと思う」、医師からの推奨であった場合は「患者に断られなかったからいいと思った」と言い訳するものだ。どちらにせよ、なるべく多くの患者を客にして自分に利益を誘導することしか考えていず、何かあったら患者に責任転嫁するということなのだ。
こうした医学を利用した〝商売″は、美醜や性的なコンプレックスを狙い打ちにするものが多いが、それ以外にもみる。たとえば、視力回復の「レーシック」が近年、問題視されている。
この治療法について、眼科専門医の多くは、よほど納得してやるなら止めないけれど、決して推奨はできないと言う。施術に際して危険が伴うし、成功しても後に問題が起きないとは言い切れないからだ。
ところが、話題になると売り物にする診療所が乱立し、「メガネやコンタクトレンズと永久に決別できる夢の治療」というような誇大宣伝で集客が行なわれ始めた。しかも、専門ではない医師や、免許とりたての新米医師らを、にわかに雇っていることすらあった。だから失敗があって当然で、目が良くなるどころか以前より極端に視力が低下したという深刻な被害が起きている。
こんな商売が成立するのはやはり悩む人たちがいるからで、彼らはそこへ付け込むわけである。その背景の一部に、たとえばスキューバダイビングの流行がある。
「今は昔」だがスキューバダイビングは、バブルの時期には、富裕層の噂みとして代表的なもののひとつだった。そんな優雅な趣味とはいえ、海底に潜るのだから、事故があれば人命にかかわる。それゆえ、業界では技能を取得した人に、認定証を発行していた。ただし、高価な道具一式を購入すれば、その認定証がもらえたという告発があった。そして、認定証を持ち講師として教えられるはずのダイバーが溺れてしまい、危ういところで初心者の人たちに助けられたという、滑稽だが人命にかかわるので笑ってもいられない事件が起きたものだった。
そんな風潮にあって、視力について悩む人たちに付け込む商売が活発となったのである。金がかかるのに、船に乗り、道具一式に身を包み、潜るのは何のためか。海底の美しい光景を直接この目で鑑賞したいからだ。メガネやコンタクトレンズを使用している人々が感じる不便さは、言うまでもないだろう。
そこへすかさず、いい治療法があると手招きする。金のかかる趣味を持つ人たちを標的にして、スキューバダイビングの専門誌にレーシックの広告が掲載されるようになったわけだ。
このように、身体的な悩みごとをビジネスチャンスとして捉える人々が存在する。そして、命と健康のためにある医療を、金儲けの道具と考える。これがとんでもなく歪んだ発想であることば、言うまでもないだろう。
「コンプレックス商法」を蔓延させたメディアの罪
このようなことが以前から横行してきた。ところが、具体的に事件となったり、行政の手が入り処分が行なわれたり、という段階になってから、やっと報道されるのだ。新聞の社会面で記事となったり、テレビが採り上げたりした時には、すでに被害者が生まれている。そして、報道により明らかとなったのは「氷山の一角」にすぎない。
そうなる前から、潜在的な危険性があるとわかっているのだ。未然に被害を防止するために、その種の広告掲載を諸雑誌は拒否するべきではないか。もちろん広告収入は経営上重要だろうし、不景気で広告収入が減っていればなおさらなので、多少いかがわしい広告でも受け容れてしまうのだろう。
そうした雑誌広告の料金は、モノクロ一ページあたりで定価五十万円~六十万円、カラーグラビアだと七十万円~九十万円ほどだという。これらを頻繁に、ときには毎号のように掲載するのだから、莫大な宣伝費用だ。
これだから、メディアは上得意様の診療所に媚びることになり、広告拒否も危険性の報道もできなくなるのだ。場合によってはお世辞の記事まで書くことになる。今も不安と困難が続く東日本大震災でボランティア活動をする人たちの中に有名人がいると、マスメディアは話題にするが、こうした診療所の経営者や医師らがいれば、雑誌は特別扱いし、美談として報じる。芸能人や議員、一般人まで、頑張っている人はさまざまなのに。
このような雑誌メディアの問題について、筆者はかつて『華麗なる美容外科の恐怖』(鹿砦社)で採り上げ、本誌でも、女性誌を多く発行する集英社を告発している。同社が美しくなりたい女性にとって頼もしい医師だと誌上で紹介した人々のなかには、自称名医でしかない者や、大学病院で前代未聞の医療ミス事件を起こし問題になった医師がいた。彼らのような、女性の脅威である医師を宣伝したことについて、集英社の華やかな女性誌の女性副編集長は、本誌からの質問に対してあやふやな回答をするのみであった。
ちなみに震災の直後には、「集英社インターナショナルの名編集者」と言われる男性が、自らのサイトで、原発は安心だと言って広瀬隆氏を中傷していた。震災により緊急停止したが冷却機能が作動しないという時、このままでは福島第一原発が危険であると広瀬氏はテレビ出演して警告していた。そして実際にそうなってしまった。
ところが、「名編集者」は、広瀬氏の出た番組を見ていないけれど、不安になることを言う人は信用せず、とにかく大丈夫だと言う人のことを信用するべきだと、とんでもないことを書いていた。こんなお粗末さでも、集英社では通用するわけだ。集英社は、かつて広瀬隆氏の原発批判の本を出版していたが、どうしてしまったのだろうか。
ともあれ、サラ金や宗教団体が社会問題になると、その宣伝を載せるメディアの倫理が問われるのだから、人命にかかわる医療となれば、より強い配慮が求められるべきだ。
そして、消費者の側も、広告に惑わされないように注意しなくてはならない。大手出版社がペコペコしてしまうほどの莫大な宣伝費用である。そんな投資を回収しなければならないのだから、医療費を水増しされたり、不必要な手術や薬を勧められたりということはザラにある。つまり、ボッタクリされたうえ身体を危険にさらすことになるのだ。
しかし逆に考えれば、広告は高額ゆえ、対価に見合う効果がなければ消滅する。そして広告により集客している診療所も、経営が成り立たなくなり消滅するのだ。自らの身体と資産を守ると同時に、マスメディアを健全化させるために重要なのは、こうした宣伝を無視することなのである。