[メール話] 続・ロスシリンダー有る無し法を野矢さんが紹介

新規性の捏造における 責任の所在について

大学教員A
最初に発表した人に敬意を表すのは、当然。 
研究者としては、最低限のモラルです。

私は、純粋な研究者なので、こういう事例はテロのように感じます。
研究論文の根本を、教えてさしあげたいくらいです。
論文の捏造には色々なレベルがあります。
もちろん、事実でないデータをでっち上げたり、被検者数を水増しするのは捏造です。

でも、科学論文においては、先行研究の存在を知っておきながら、それをなかったことにし、あたかも自分の新発見のように演出して投稿することは、発見の盗用という、「発見の新規性の捏造」になります。

前者の捏造の場合は、その研究者の出来心などに依るものであることが多く、もちろん、論文の投稿先の雑誌の編集者は、その論文の内容に関しても責任を取るべき立場であるのですが、その内容自体の正当性は、自分で実験しない限りは確かめることは出来ないでしょから、共著者や、論文の投稿先の雑誌の編集者ですら、その捏造の事実を審査することは、事実上、困難です。

なので、論文に何らかの問題が発覚した場合に、罪を追求されるのは、ファーストオーサーをはじめとした、著者たちのみです。

一方で、後者の捏造の場合は、もちろん、その論文の著者は罪に咎められます。
さらに、重要なのは、論文の投稿先の雑誌の編集者は、その論文の内容に関しても責任を取るべき立場であって、この手の捏造は、その編集者の注意によって避けることが可能である可能性があるということです。

要は、編集者は「査読」をする義務があるわけです。
科学論文では「査読誌である」論文と「査読誌でない」論文が明示されています。

「査読誌でない」論文とは、オープン論文といわれる形式でして、例えるならば、掲示板に勝手に書きこむような感覚の論文です。 この手の論文は、内容や新規性に対する保証はありません。 読者も、そのことをわかった上で、読みます。

一方で、「査読誌である」論文は、最終的には編集者の一存で採否が決まるほど、編集者の責任が重い論文です。

逆に、内容や新規性に対してのある程度保証はあると思って、読者は読みます。 そして、査読誌で、論文の内容に読者がクレームを抱いた場合、例えば、あの、超一流誌の Nature 誌だと、まず「letter to  editor」(その論文の責任編集者への手紙)という形で疑義紹介がなされます。

そして、その疑義紹介の内容は、きちんとオンライン上で公開され、それに対する、編集者のコメントが必ず示されています。 それだけ、編集者の責任が重いのです。 編集者は、そういう事態にならないように、プライドを持って、自分が関わる論文にはとても厳しく、チェックの目を光らせるようになります。 それだけ、査読が厳しくなるというわけです。

そして、編集者として、その分野のスペシャリストを登用する場合が多いのも、その査読の精度を上げるためのことです。 責任を持った編集をしている、ということが Nature 誌の内容の保証につながり、それが Nature 誌の超一流たる所以なのです。

そうですね………逆に言うと、三流以下の雑誌ではその保証がないわけです。 科学者の私からすると、この雑誌の編集者のかたが、このような態度を取られたということは、この雑誌の内容自体の責任を、当事者の編集者ですらとれないということであって、ひいては、この雑誌の記事全体への信憑性への疑いへとつながり、つまるところ、この雑誌の格を自ら落とすようなことをされている、ということであるわけです。 そのことに、この編集者のかたは、早く気づくべきです。

岡本
月刊眼鏡の編集者は、技術的なことにはうといので、査読は元から無理です。

だから、野矢さんの記述におかしなところがあっても気がつかないのはしかたがないのですが、私からあのような抗議を受けたら、最後まで話をつなぎ、野矢氏から返事が無くなった時点で、雑誌に私からの抗議を載せるのは無理だろうけれど(ま、業界誌だから)、いっぱしの良心があるのなら、せめて私には謝罪をすべきでしょう。

これが昔なら、ネットもなかったし、私のように「日眼研雑誌に書く」ということも誰にでもできることではないので、普通ならまったくの泣き寝入り。

だから今回は、雑誌にも載せるのですが、ネットサイトで、筆者だけでなく編集者も批判することにより、少しは編集者のかたにも真剣に反省をしてもらいたいわけです。

それで、今回の野矢さんの場合、まず、クロスシリンダー有る無し法を説明した。

そこにおいて、これは自分(野矢)の創案だ、と言ってはいないけれど、それはずっと昔から公知のものであったのではなく、私が30年ほど前に発表したものなのだから、当然ながら、少なくとも、岡本の名前を出すべきです。できれば私が書いた初出文献を書いておくのが、研究者としては望ましい。

なお、手持ちのクロスシリンダーで乱視を測る場合、100年以上前に考案された反転法に、私が考案した有る無し方を併用すれば、反転法だけの場合よりも検査時間が半分以下に縮まるのです。

有る無し法は、現在、メガネ業界ではけっこう使われていますが、眼科は問題意識がないので、知らないところがほとんどです。 今回問題にした野矢さんの連載記事が載っているのは、学術雑誌ではまったくなくて、どこの業界にもある広告雑誌で、技術的な記事はごくごく一部。

だから、業界誌編集者に、学術雑誌の編集者としての見識なんて求める方が無理です。

あの逮捕された簗瀬医師の論文もどきが載ったのも、おなじ「月刊眼鏡」です。

眼鏡業界の中の雑誌で、元から広告に頼っていないのは日眼研雑誌のみでしょう。

業界の中では、一番学会っぽい日本眼鏡学会の『眼鏡学ジャーナル』は、この「月刊眼鏡」を出している出版社が下請けで作っていて、広告費が制作費と同じか、やや広告費が上回る。上回った場合には、学会に余った広告費が入るのです。

なお、日眼研雑誌は、今年度から広告を廃止しました。

大学教員A
広告なしで財政的にやっていけるのでしょうか。会費値上げとか、するのでしょうか。

岡本
会費の値上げはしなくともなんとかなりそうです。もともと4ページの広告で、その印刷費などの経費をさしひくと年間でさほどの金額にならなかったのです。

会員数がおかげさまであまり減らないので、広告をやめてもさほど困りません。 広告があると、編集部としても(こちらは編集が本業ではないので)なんだかんだで面倒、ということもあるし、メーカーの商品の批評や、メーカーの広告に対する批判なんかも、多少はやりにいものですが、広告がなくなると、その辺の葛藤がなくなります。

ちなみに、「暮らしの手帖」は公正な商品テストが売りの雑誌ですが、昔から広告を載せないことで有名です。ほとんどの商業雑誌が広告に依存している中で、異色の存在ですね。 あ、そうそう、小林よしのりが出していた「わしズム」も、広告らしい広告がない雑誌でした。

広告無しで成立する雑誌は、心ある雑誌編集者の理想なのですが、その理想を実現できている雑誌がいかに少ないかということは、本屋さんの雑誌コーナーをのぞけば、すぐにわかります。

大学教員A
天下のイギリスの雄、Nature が、広告に依存している雑誌です(*^_^*)  
だから、「商業誌」って言われていて、嫌う人は嫌う。

アメリカの雄、Science は、対照的に学会の運営資金のみで頑張っています。

ですから日眼研雑誌は Science です。 (^_^)

岡本
学術的な色彩が濃くなるほど、広告無し、が正解だと思います。
ネイチャーの姿勢は僕には理解できません。

大学教員A
私も Nature の姿勢は理解できません。
その広告料で Nature は、世界各国に編集支部を設けて、最近では、各国語の翻訳が入った Nature も出版されている。

Nature に載る論文は、インフルエンザが流行れば、インフルエンザだし、狂牛病が流行れば、狂牛病。「いかにたくさん売るか」ということを、主眼に置いている。

会員の会費だけで学会誌を作ろうとなると、それだけ、その学会の活動自体に魅力がないと厳しいんだと思います。

Science が傾かないのは、AAAS っていう学会組織(AmericanAssociation for the Advancement of Science)がとてもすばらしい組織で、そこには超一流の科学者が集う。世界中から入りたい人が殺到するような組織だから。

それで実際、Nature の被引用数は、うなぎ下がりです(^_^)。科学者が引用したいと思うような、論文が少ないってことの表れです。

岡本
企業でも、優れた商品やサービスを提供できるところほど営業には力を入れなくても業績を挙げていますが、Science は、それと似ていますね。

あ、そうそう。私が行きつけの歯科医の先生は、「歯科の学会は、歯磨きメーカーがスポンサーについて、開催されたりするので、なさけないですわ」とおっしゃっていました。

投稿日:2020年10月17日 更新日:

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